金尾山展望台より撮影(2020/2/11)。
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 「金尾」の名の起りは、古く奈良時代頃で、和銅年間(708-715)、銅を産し、元明天皇(第43代在位707-715)に献上した黒谷村(現秩父市)の和銅山より続きし山の尾なるがゆえにこの名になると言われている。

一、金尾山は村の西北に位置し、標高229米、別名要害山・愛宕山・つつじ山とも呼ばれ、近くは、昭和34年4月には、天皇・皇后両陛下をお迎えしての全国植樹祭が行われたことから、さらに広く有名になりました。面積約3ヘクタール、古くは白鳥村有林として地元(上郷耕地)で管理、昭和18年合併により寄居町有となり、さらに、昭和34年には県に寄託され、現在は県林業事務所の下で、良好な管理が行われて居ります。この山には、およそ1万株の自然性つつじがあり、4月中旬から5月中旬には全山まるで緋の衣のように染まり、すそ野の桧の緑は袴のごとく調和してその眺めは広く称賛されて居り、期間中つつじ祭りが催されます。そのつつじの大きい株は高さ3米、幹回り0.3米、枝回り7米を越え樹令200年以上と言われて居ります。
 遠い昔の先人達が、むらの信仰の山として崇め、また、村の緑地帯計画に基づく憩いの山として桜・つつじを植えたもので、農事学術研究会、金尾愛郷会、金尾保勝会、現在の町観光協会金尾支部へと引き継がれ、その保護育成が計られて(原文ママ)きたものです。

二、金尾山は、中世の名城鉢形城(文明8年、長尾景春築城)西方の支城の一つ要害山城(城主金尾弥兵衛)跡で、天文元年(1532)藤田左衛門佐重利が築城したものと言われ、天正18年(1590)6月14日鉢形城の落城とともに廃城となりましたが、今でも土塁、縦空堀り、馬出しなどの遺構がみられます。
 また、山麗の伝蔵院は城主の居館跡で、ここから裏山越えに、城に往来したと言われる細道があり、さらに金尾の対岸、波久礼の地に城の殻倉があったことから、この一帯に「殿倉」の地名が残り、「殿倉の渡し」跡もよく知られて居ります。

三、山頂下の二の曲輪には、永禄3年(1560)以降、支城の完成を機に城主が城の守護神として祠堂を建立したのが、その初めと言われる愛宕神社があり、火伏せの神阿久津智命導きの神猿田彦命の二柱をお祀りしてあります。氏子は、毎年4月29日には、祭典を行い、”お日待ち”を催し、火防と家内安全のご利益を祈願いたして居ります。また、当日の”付けまつり”として、遠くは深谷丸一々座の神楽が奉納された事もあり、近年に至り氏子の手により神楽獅子舞・火の輪くぐりの火防行事を復活させ、御神礼、御守り札の授与などがあり、信仰をあつめて居ります。
 昭和35年には、社殿の改修が行われて以来、県林業試験場の指導により、参道の整備、つつじ園の手入れ、休憩舎の設置、59・60年には、遊歩道の改良など、むらをあげて保存活動に協力し、この名山を後世に残したいと考えて居ります。
 愛宕神社の御神徳により、金尾山の安泰と郷土の限りない発展、ひいては、住民の幸福に御加護賜わらんことを深く祈願申し上げるものです。

 昭和61年4月11日
 奉納
 寄居町金尾白髪神社氏子一同
 寄居町西部分館金尾公民館
 寄居町観光協会金尾支部
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