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南部義典オフィシャルブログ

タグ:大宮

 公民館前の道は、大宮と所沢、川越を結ぶ県道です。昔から西は川越、南は与野、東は大宮と結ばれる交通繁多な主要道でした。公民館敷地内にある道しるべの石碑には「西 川ごへ、南 引又 大山道、南 よの 江戸 東 大ミや いわつき道」と刻まれています。公民館東方約100mで、与野への道が分岐しているので、古くはこの辺りに立っていたものと推測できます。この石碑の造立年代は不明ですが、江戸時代後期のものと考えられます。この頃になると人々の活動範囲が広がり、神奈川県大山の阿夫利神社へ参拝することがはやり、市域の道しるべに「大山道」と刻まれるようになります。講を組織して講中の代表が参拝し、お礼を受けてきました。男の子は15歳前後に、初めて参拝に加わることが多かったようです。また、川越、与野は当時の商業都市で市が開かれる日には道を急ぐ人が多く、各地の道しるべにまちの名が彫りこまれています。

 県道を西へ進み、新大宮バイパス西方の三橋4丁目〜鴨川〜植水地区は歴史散歩コースとなっています。三橋4丁目の側ケ谷戸古墳群をはじめとする地域の貴重な歴史・文化遺産が数多く残されています。公民館に案内パンフレットがありますので御利用下さい。

 さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
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 旧川越道は、所沢新道とほぼ同じ道筋で大宮と結ばれていますが、旧道はここから右へ折れ、並木橋で鴨川を渡り、水波田観音へと続く幅2間(3.6m)の道です。
 
 戦国時代の当地一帯は、岩槻太田氏の領地でしたので、小田原・北条氏と太田氏との争いの際には水判土の慈眼坊(慈眼寺)が消失するなど、川越道は重要な軍事道路でした。

 江戸時代になると、次第に川越町と大宮宿を結ぶ生活道路としての色彩を強めていきます。特に近距離の川越は人口も多く、かつては大きな市が立ち、売りさばきも容易であったので、市域西部の村々では穀物や野菜などを大八車に積んで出荷していました。

 また、この道は東へ進むと中山道大宮宿へ、また南北に通る与野道とも各所で交差していますので、地区の人たちはもとより近郷近在の人たちにとっても大切な道でした。

 さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
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画像 4日、東北新幹線が新青森まで、全線開通となりました。
 初日から強風による徐行運転を強いられたり、ホームに乗客を取り残したまま発車し遅延が発生するなど、終日トラブル続きでした。
 東京、博多などで乗車券・特急券を買い換えなくて済むよう、東日本、東海、西日本、九州をまたぐ運賃体系ができれば、もっと利用者は増えると思います。

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