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南部義典オフィシャルブログ

タグ:立憲主義

(マガジン9)立憲政治の道しるべ 2015/09/30更新
第78回「あと20〜30年は、安倍内閣の独断をはね返す“後戻り”期間となる」
http://www.magazine9.jp/article/rikken/23067/
http://blogos.com/outline/136725/



 憲法を改正するかどうかの投票のルールを決めた国民投票法が、国会で改正されました。投票できるのは、これから4年間は「20歳以上」の人ですが、4年後からは「18歳以上」に引き下げられます。どうしてそうなったのでしょうか。3月まで慶応大学講師をつとめ、『Q&A解説・憲法改正国民投票法』の著者の南部義典(なん・ぶ・よし・のり)さんに聞きました。

 憲法を改正するには、国会が3分の2以上の賛成で提案して、国民投票にかけなければなりません。しかし、国民がどのように投票するかは、憲法では決まっていません。そのため、2007年、国民投票法が国会でつくられました。

 国民投票法では、18歳以上が投票できることになりました。国会議員や知事、市長などの選挙で投票できる選挙権は20歳以上です。大人とみとめられるのも、民法という法律で20歳と決められています。国民投票だけ18歳以上にしたのは、なぜでしょうか。

 南部さんは「憲法を改正するのは、人の一生のうちに何度もあることではありません。そのため、できるだけ若い人たちの意見も聞こうということになったのです。また、世界の多くの国々では、国民投票や選挙、大人の年齢は18歳以上です。国民投票をきっかけに、選挙権と大人の年齢も18歳に引き下げようとしたのです」といいます。

 国民投票法は、3年後の施行(法律を実行すること)までに、選挙権と大人の年齢を18歳以上にそろえるよう国に宿題を出しました。2010年、国民投票法が施行されました。ところが、いまでも選挙権と大人の年齢は20歳以上のままです。どうしたのでしょうか。

 「国会議員や役所が宿題をさぼったのです。そのため、国民投票と選挙、大人の年齢がちがうという予想外のことがおきました。国民投票に参加できるのは、18歳以上なのか20歳以上なのかが、はっきりしなくなったのです。これでは国民投票はできません」

 国民投票ができなければ、憲法改正はできません。そこで憲法改正に熱心な自由民主党(自民党)が中心になって、国民投票の年齢をはっきりさせようとしたのです。

 今回の改正で、これから4年間は20歳以上、そのあとは18歳以上が投票することになりました。18歳以上の投票は、なぜ4年間待つことになったのでしょうか。

 「自民党の中から『18歳で国民投票に参加させるのは早すぎる』という意見が出てきたからです。同じ与党(政府をささえる政党)の公明党は18歳を主張しました。そのため、両方の意見の間を取ったのです」

 宿題だった選挙権と大人の年齢は、18歳に早くそろえることになりました。選挙権については、ほとんどの政党が2年以内に18歳以上にすることを約束しました。大人の年齢を18歳にすることについては、期限がついていません。

 「古い宿題のかわりに新しい宿題が出されたわけです。こんどこそ、国会議員や役所はさぼらないでほしいですね」

 今回の改正で、公務員も憲法改正について意見をいったり、ほかの人に賛成か反対かの投票をするようすすめたりすることができるようになりました。こうしたことを決めたのはなぜですか。

 「公務員はだれに対しても、中立でなければなりません。選挙では、だれかを当選させようと運動をしてはいけません。しかし、憲法を改正するかどうかは大事なことですので、公務員も自分の意見をいったり、運動をしたりできるようにしたのです」

 国民投票のルールがかなりととのいました。これで憲法改正は進むのでしょうか。

 「憲法改正については政党の間で、いろいろな意見があります。国会が憲法改正案をつくり、国民投票にかけるには、時間がかかると思います」

 いまの小学生もいずれ国民投票に参加することになるかもしれません。

 南部さんは「憲法は個人の権利や自由を守るためのものです。憲法を変えることを国会が提案してきたときには、個人の権利や自由をもっと広げることになるのかどうかを考えて、賛成か反対かを決めてほしいですね」といいます。

 朝日小学生新聞(2014/6/17)

 中山先生が昨日、憲法審査会の未設置を「時の流れの忘れ物」と評されたことは、
言い得て妙なところがあります。
 憲法審査会の立ち上げもそうですし、憲法改正の手続きを定める国民投票法の制定も、60年間放置されてきました。

 「憲法規範は空洞化し、もはや国民の手にない」と言われることもあります。私もその趣旨に同意します。制憲者意思は「忘れ物」ではなく、「落し物」になってしまったかのようです。ある憲法学者は「生ける憲法」と称しますが、主権者が立憲主義の意味を亡失した瞬間に、「生ける屍」になってしまうことでしょう。

 制憲者は60年前、まず立憲主義政体の根本原則を定め(前文1段、第10章)、そして、個人の尊厳(人権尊重)の確保を頂点とする、ピラミッド型の憲法規範・統治構造を作り上げました(立憲的意味の憲法=成文の憲法典)。

 ピラミッドが崩れないのは、まさに硬性憲法であるからです。
 しかし、ピラミッドの形が崩れてさえいなければ、個人の権利・自由が守られているかといえば、必ずしもそうでありません。最近では、自衛隊の海外活動の問題のほか、年金保険料の横領が個人の生活権・生存権を脅かしている実態も、重大な憲法事件と捉えられます。
 
 立憲主義政体にあっては、「忘れ物」と「落し物」は禁物です。
 もっとも「忘れ物」は、自律的に取り返すことができますが、「落し物」は、主権者が主体的に探し求めなければ、永久に失ってしまいます。

 憲法審査会の設置は、国民の「落し物」探しに大いに資すると確信しています。

 ところで、「憲法審査会の設置は、憲法改正につながるので反対」という議論は、今後ますます、その立脚点を失っていくでしょう。
 護憲/改憲という立場(判断)は、国会で具体的な憲法改正案が発議されて初めて
、それが立憲主義に適っているかどうか観念(判断)しうるのであり、アプリオリには採りえません。

 憲法論議の仕方について、当然、憲法は具体的な規定を置いていませんが、
 制憲者がまず、立憲主義政体の根本原則を定め、憲法改正規定を置いていることからすれば、いわゆる「手段的憲法規範」(C・Schmittの言う「憲法律」に相当)について、立憲主義的観点からのチェックを不断に行うことが必要と考えます。チェックの必要性は、憲法附属法、実質的意味の憲法においても同じです。
 国政による福利は、主権者である国民が享受すると、憲法前文には書いてあります。享受すべき福利を増大させるため(社会的厚生、功利性)、主権者が権力をオペレートしていくことは当然のことと考えられます。その際、演繹主義と帰納主義が相克し、政治的緊張感がみなぎる中で、チェック作業を進めていくということでしょう。

 制憲者が立憲主義政体の根本原則を定め、それを将来に向かって発展させていくことに誰しも異論はないはずです。それにもかかわらず、護憲/改憲という特定の思考・判断ランプにすでにスイッチを入れていること自体、おかしな思想・態度と言わざるを得ません。

 憲法審査会の未設置は、奥深い政治問題と化してしまいましたが、国会法違反という法律レベルの問題だけではなく、憲法の原理論的観点からも、その不当さが問われることでしょう。

 衆参両院に憲法審査会が実質的に立ち上がらず、
 2007年も残り3か月となってしまいました。

 国会が堂々と国会法違反を犯しています。
 参院においては、附帯決議15[憲法審査会による調査]にも
 反しています。
 凍結期間中の調査をも、二重に凍結してしまっているの
 です。

 私は、[改憲派/護憲派]二分論に一切与しませんが、
 便宜上、この概念を使うとすれば、
 政治の現場における改憲派と護憲派は、憲法審査会の立ち上げ
 から、ともに逃げています。

 参院選の敗北は、安倍前首相の復古的政治観、イデオロギー
 にあると考える改憲派(とくに与党一部の独自路線派)が、
 いまや憲法論議をタブー視するという皮肉な状況です。

 政治的な損得で、憲法審査会の意義が考えられるように
 なってしまいました。

 憲法審査会の権能は、憲法改正原案の審査だけにあると
 誤解している人も、相変わらず多く見受けられます。
 憲法、憲法関連基本法制を広範かつ総合的に調査すると
 いう役割は、
 ざっくばらんに言えば、憲法問題、憲法事件を対象に
 広く議論するということです。

 9条だけではありません。
 年金保険料の横領、内閣総理大臣の突然の辞職・・・。
 憲法的観点で論じ合うテーマは、最近のニュースを見ても
 たくさんあります。
 およそ、現行憲法が想定していないような事件が起きて
 しまっているのです。

 そこから何が生まれるか。
 憲法改正原案のアイデアが生まれてくることもあれば、
 それには至らず、自由討議のような場で、立憲的意味での
 共通意思が形成されることがあるでしょう。

 立憲主義とは何か。
 憲法に明文の定義規定はありませんが、
 国民の権利と自由を可及的に保障するため、憲法上、公権力に
 ついての定めを置き、同時にその作用の限界を定める原理と
 いえます。

 アメリカのワイザンスキーという裁判官がかつて、国家による
 自由(社会国家)とほぼ同義に、
 積極的立憲主義(affirmative constitutionalism)という概念
 を提唱しました。

 立憲主義を放置し、権力作用のチェックを怠っている日本には、
 これと違った意味での積極的立憲主義(positive constitutionalism)
 という概念が必要です。
 
 例えば、安倍前首相の辞め方は、あれで正しかったのかどうか。
 そもそも、今回の場合、憲法70条で規律されるところのケースでは
 ありませんが・・・、

 1.(堂々と)臨時代理が置かれなかったのはなぜか。
 2.安倍首相はどういう法的根拠で辞めたのか。
  →「辞表を提出」(国会法64条)したといえるのか。
 3.任命権者である天皇に対し、辞表が提出できないのはおかしい。
 など、いろんな論点が出てきます。

 国対政治がガッチリ機能する日本にあっては、
 法の欠缼、政治的空白をもバッチリ埋め合わせる対応が
 なされました。
 
 しかし、喜んでいる場合ではありません。
 前首相の所為は、いわば消極的意味での権力濫用であって、
 立憲的意味においては、憲法的チェックがかからず、
 危なっかしい場面でもあったわけです。

 中世・近代・現代へと続く憲政史において、
 基本原理はともかく、各国の制度、議論をそのまま日本に
 当てはめるわけにはいきません。
 立憲主義の機能強化は、現実の問題として、国民の側が強く
 自覚し、現実社会に根付かせていく必要があります。

 国民の側が強く自覚する必要があるといっても、
 1億2千万人の総意を形成することはできません。
 やはり、憲法論議の原点である「国民との対話・キャッチボール」が
 不可欠なのです。国民も努力はできますが、国会からボールが
 投じられないようでは、どうしようもありません。

 積極的立憲主義の「第二の意味」。
 (実質的意味の)憲法は生き物のように、言わばアメーバの
 ように形を変え、増殖し、いつの間にか歪な形になっていく
 ものです。
 究極的にはそれは主権者がチェックし、是正する他はありませんが、
 国会には立法権を与え、国会法という法律に基づいて、
 憲法審査会という組織に、一定の権限を与えた(はずな)のです。

 そうだとすると、憲法審査会は「憲法改悪の一里塚」などと
 いう見方が、実に片面的、偏向的であるかが分かります。
 9条改正によって、現状より悪くしてはいけないという主義・主張は、
 一面において正しいものの、
 立憲的意味において、現状より良い方向での改正をも否定に解する
 という点では、立憲主義の半面しか理解できていません。
 まさに「半立憲主義」な思想です。
 
 さらに、立憲主義の意味すら分からず、何でもいいから憲法改正を、
 という言説も論外です。
 
 これらはともに、日本の立憲政治の発展を阻害します。
 結果として憲法の価値を低減させるだけです。

 憲法審査会での議論が、日常的に国民に伝わるようになると
 よいと思います。
 憲法的観点を養うという意味から、国民の思考訓練になるから
 です。

 憲法改正原案の審査以前に、憲法審査会がやることは山ほどあります。
 メディアの皆さんにはぜひ、こういう観点での報道をお願いしたい
 のです。

8fd91dbe.jpg 本日のテーマは「立憲主義と民主主義」。
 「多数決原理」=「正義」という単純な民主主義はダメ。その濫用の歯止めとなる「立憲主義」が前提として機能することが必要――あまりにも当たり前のことが、戦後の政治で意識されてこなかったことについて、厳しい問題提起がなされました。
 
 出席者からは、国民投票法案の採決についても様々な質問が。。。

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